(……まずいことになった……)
と、朝アレフの家から学校までの道のりを走りながら思う。
昨日、あのあとルシードはパティにこんなふうにいったのだという。
『オレ、ほんというと、パティさんにあこがれてました……』
『………』
『オレ、本気です』
『そんな。困るわ……だってわたし、好きな人がいるもん。今、つきあっているんだもの』
『……知ってます、今、横断歩道のところで待ってる、幼なじみの男でしょう?名前は確か、アレフさんっていいましたっけ?いとこのフローネがそんなことを話していたのを聞いたことがある』
『知ってるんだ、ルシード君ったら……。だから、ごめんね』
『あやまらないでください。あやまられたらオレ、悲しいし……。それに、そう簡単にあきらめるつもりもないですよ……。オレ、年下だし、パティさんに何もしてあげられないかもしれないけど、必ずパティさんの力になってあげるから。だから、パティさんがアレフさんに振られるの、首を長くして待ってます……なんだか性格悪い男みたいだな、オレ。別れるのを待つ、なんて。はは……』
と、ルシードは頬を赤くして、ぽつりぽつりといったのだという。
昨日の帰り道、頬を上気させるパティからその話を聞いた時、アレフは。
「嫌な予感が的中した……」
と、頬をぴくぴくさせて呟いた。
でも、パティは。
「わたしの力になってあげるから、かあ。うーん、いい言葉だわ。アレフって一度もわたしにそういう言葉をいってくれないもんねー」
「パティの力になってあげるから」
「……それじゃ棒読みだわ」
「俺は……<不言実行>の男なんだ」
「うそっ……<実言不行>じゃないの?」
「………」
アレフはなんだか情けない気分になってきた。
こうなったらやきもちやいてやる、と思った。
「でもまあ、もうじき卒業だす、ね。わたしはルシード君にあんなふうにいわれてとても嬉しかったけど、アレフと別れようなんてさらさら……」
そのあとをパティはきっと、思っちゃいないわよ、とでも続けようとしたのだろう。
でも、その前にアレフは、いいんだぜ、と仏頂面をして呟いてしまった。
「……俺だって、もう昔の<モテないアレフ>じゃねーんだ。パティなんかいなくなったってぜーんぜん悲しくないもんな。いーんだぜ、無理しなくたって。おまえはルシードとつきあえばいいじゃん。俺はトリーシャちゃんとつきあうからさー」
(もしかするとトリーシャちゃんは犯罪者かもしれないけど。高校を辞めさせられちゃうかもしれないけど、さ……)
パティはぴたりと足を止めると、
「……ちょっと。本気でいってるの、それ?」
と、ちょっと怒った声でいった。
「ほんきもほーんき」
と、アレフはそっぽをむいていったけれど。
本気であるはずがない。
パティが黙りこくってしまったので、アレフは、へへっと笑って振り返ったのだが、すぐに笑いは凍りついた。
パティが、瞳にうっすらと涙を浮かべてうつむいていたいからだ。
「おいおい……冗談だってばー」
でも、「冗談だってばー」と続けるより先に、パティは、そう……、とぞっとするような声でいった……。
「アレフが……そんなふうに考えていたなんて少しも知らなかった……。アレフは、女の子だったら誰でもよかったのね?わたしじゃなくても、よかったんだね……」
「いや……」
アレフがあたふたしているのも気づかずに、
「アレフの考えてることがよくわかった」
と、ぽつりといい残すと、パティはぱたぱたと走り出す。
そして、そのまま見えなくなった……。
……昨日の出来事を思い出しながら、少なくとも、とアレフは思った。
(少なくとも……あの場面では何が何でも追いかけてやるべきだった……。で、冗談だったんだよ、ときちんといってやらなきゃいけなかったんだ……)
アレフが帰ったあと、自分の部屋からむかいにあるパティの部屋に声をかけたのに、パティは返事もしてくれなかった。
家と家が隣同士で、手を伸ばせば届きそうな(実際届く)距離にある部屋なのに、なんだかとてつもなく遠い世界に感じられた……。
(まさか俺たち、このまま終わりだなんてことないよな……ないよな……)
いつも朝迎えに来るパティにおいてけぼりにされ、走って校門を駆けぬけながら、アレフは首をすくめる。
息を切らせて昇降口の階段を駆けのぼった時、すでに一時間目の授業は始まっていた。
廊下が、世界中に自分ひとりだけ取り残されたように、しんとしている。
からから、と。
後ろのドアを首をすくめつつそっと開けると、クラスのみんなはいっせに振り返った。
くすくすと笑い声が漏れる。
でも……。
中央から四番目の席にいるパティは振り返らない。
背中が、何かを拒んでいるように見える。
「…アレフ君」
と、教壇で国語のリカルド先生はあきれ顔をする。
「頼むから、本番の入試では遅刻などしないように。それだけが私は心配だ」
口調はいつもどおり優しいけれど、いましめるような響きがある。
リカルド先生は、テストの束をぱらぱらやりながら、
「そんなわけで、アレフ君が来たから、先日の古典のテストを返そう。みんななかなか頑張ってるようだね。本番でもこの調子で頑張ってくれ。……出席番号一番アレフ」
「は、はい」
自分の席につかぬうちに名前を呼ばれたので、アレフは微笑んでいるリカルド先生からテストを受け取る。
おそるおそる点数を見ると、<80点>という赤ペンで書かれた文字が見えた。
(すげー。今までの俺の古典の最高点だ……採点ミスとかいうオチはねーよな……)
パティが休日返上で俺に<助動詞>のこととか教えてくれたもんな……と、しみじみとパティのほうを見る。
ふっくらとした横顔はこちらを見向きもしない。
(………)
アレフが複雑な表情をしていると。
背後で、リカルド先生がこんなふうにいうのが聞こえた。
「ちなみに……最高点はアルベルト君だ。ここに来て満点を取ってくれるなんて、私は嬉しいよ」
どわー、とざわめきが起こる。
アレフは振り返ると、アルベルトはテストを受け取りながら、しきりに照れた顔をしていた……。
(げ。アルベルトが満点……?俺の次に古典が苦手だったはずのアルベルトが……)
「あんな冗談いってごめん。俺、パティにやきもちやいちゃったんだ……。手をついてあやまる、かんべんね」
と。アレフが学校の裏庭で土下座しようとすると、パティは、いーわよそんなことしてくれなくったって、とあわてた表情をする。
「それじゃ、俺と今までどおりつきあってくれる?」
「あたりまえじゃないの、わたしだって……ルシード君にあんなふうにいわれて浮かれた表情をしたりして……。悪かったって反省してるんだから……」
と、パティはようやく照れたように微笑んでくれた。
よかったー、とアレフが心からほっとした表情をする。
「俺、パティがいなくなったらどうしようかと思っちゃった。パティならやさしいからきっと笑って許してくれると思ったけど、さ……。俺、やっぱりパティでなきゃだめなんだよな……」
「よし」
「……なんだよ、『よし』っていうリアクションは……?」
アレフは思わずこけそうになる。
ひゅるる、と足元に渦を作って、北風が吹きつけてきたので、とっさにパティはアレフの陰に隠れる。
砂埃を吸い込んでしまったアレフはげほげほとむせながら、俺を風除けにしてる、と思った。
パティは、後ろで手を組んで、ごめん冗談よ、と含み笑いをした。
「わたし……どうして自分が意地っ張りになったのかなんとなくわかるような気がしてきた」
「……?」
「昨日わたしが口にしたようなことを、アレフは前に何度もいったでしょ?あの子俺に惚れとル、とか、<隠れアレフ>じゃないか、とか……。そんなふうにいわれたら、いくら冗談ってわかってても、いくらアレフのこと信じても………ちょっと悲しかったんだよ」
なるほど、とアレフは思う。
(俺はほかの女の子のことをけっこうパティの前でほめてばっかりいたけど、パティは俺のことほめないぶん、ほかの男のかっこよさとかほめなかったりしなかったっけ……少なくとも俺の前では、さ……)
まあビセットのことはっけこう評価してるみたいだけど、さ。
もちろん、友達として、だろうけど……。
「そーだったのか……」
「わたしの気持ち、わかった?」
「ん……俺が浮気ものだったばかりに、パティの性格をゆがめてしまったんだな。申し訳ないことをした……」
「……どーだっていいけどね」
と、パティは苦笑いをする。
そして、自転車置き場のほうにさりげなく視線を移しながら……。
「……それにしても、古典のテストでアレフが<80点>取っちゃうなんてすごい。これなら、卒業は大丈夫だし、入試のほうも大丈夫よね。……うあだなあ、アレフだけ合格してわたしだけ浪人することになったら……」
「そんなこと、あるわけねーじゃん」
わたしが浪人することになっても、見捨てないでね、とパティはちょっと気弱そうに呟く。
(……何いってんだよ。パティったら、アルベルトの次にいい点とったくせに……)
にしても、とアレフは呟く。
「……アルベルトってすごいよなあ、いきなり満点とか取っちゃって。まさか、いきなり超能力を身につけたんじゃねーだろうなあ……」
「まさぁ。アレフもアルベルトを見習ってがんばるのよ。やってやれないことはないんだから……」
「ん」
「ただ……」
と、パティはちょっと気になるといった表情をする。
「なんだ?」
「ううん、なんでもない……ちょっと気にかかったもんだから。アルベルトって、テスト前にやたらと暗い顔してたでしょ?それなのに、テストの一日目あたりから妙に明るくなったもんだから……」
「そういわれてみるとそうだな。なぜなんだろう……」
「ん……」
パティは口元に手をあてて考え込んでいたけれど、すぐにそっと笑った。
「ま、あとで考えようか……。もうじき午後の授業がはじまっちゃうもん」
「ああ。こんなところにいたら風邪ひいちゃいそうだもんな……」
ふたりが寒さに身を縮めながら階段のほうへ歩きかえると。
背後で、ぱりん、と音がした。
「……ぱりん?」
ふたりが不思議に思って振り返ると。
先ほどふたりが立っていたあたりにガラスの破片がこなごなになって散乱していた。
廊下側のガラスが砕け散ったのだ。
いったい何が起こったのだろう?
呆然として三年生の教室のあるフロアを見ると、ふたりの男子がとっくみあいのケンカをしているのが見える。
もういっぺんいってみろよ、などという怒鳴り声が聞こえる。
「あの声は……」
「アルベルトの声だ……」
……アレフとパティがあわてて教室まで駆けつけた時。
アルベルトと、やはり同じクラスのリュートは、はあはあ、と息を切らせてにらみあっていた。
すでに何人かの男子生徒が、アルベルトを羽交い絞めにして取り押さえている。
もののはずみで殴られたのだろうか、リュートは赤くなった左の頬をさすりながら、
「……俺はただ、冗談でカンニングしたんじゃないかっていっただけなのに……」
と、おびえたような声でいう。
「アルベルト、どうしたんだよ……?人のいいおまえがケンカするなんて……?」
アレフが、いまだ興奮さめやらぬといったアルベルトに思わず声をかけると、アルベルトは肩で息をしていった。
「アレフか……。あとでちょっと話がある……」
「げ。俺、ケンカはやだぞ」
「そんなんじゃ、ねーや……」
と、アルベルトは笑っていったけれど、何かありそうな口ぶりだった……。
放課後、アレフはパティを先に帰らせてアルベルトと一緒に悠久学園にある静かな喫茶店に行った。
本当はパティにはハンバーガー・ショップかどこかで待っていてもらおうと思ったのだが、受験を間近に控えた今、そういうこともいっていられないのである。
パティはなごりおしそうな顔をして、何度も振り返りながら帰っていった……。
「……リュートには、明日あやまんなきゃいけないな。オレ、心がすさんだみたいだ……」
すっかり落ち着きを取り戻したアルベルトは、さらりというと熱いコーヒーを一口飲む。
「つい、かっとなってさ……気がついたらリュートを殴ってたよ」
「ま、リュートも人がいいから許してくれるさ。それに、リュートだっていけないんだよな、おまえがいい点取ったのを茶化したりして」
アレフがそっというと、アルベルトはうつむいた。
そして、頬をぷるぷると震わせて小刻みに首を振る。
「いや……リュートは悪くない。オレが悪いんだ」
カンニングってのはあたらずも遠からずだったんだもんな、とアルベルトがいったので、アレフは思わずぎょっとする。
「お、おまえ……それってどういう意味さ……」
「オレは、テストに出る問題を前もって知ってたんだよ……」
「えっ……」
アルベルトが意外なことをいいだしたので、アレフのほうがあわててしまう。
きょろきょろとあたりを見回すが、悠久学園の生徒はいないみたいだ。
アレフが思わずそっと溜息をついている間に、アルベルトは、ごそごそとカバンを探ると、しわくちゃのワープロ用紙を取り出す。
どうやらそれは印刷される前の、テストの原版らしい。
古典のテストに出題されたのと寸分たがわぬ問題が、そこに並んでいる……。
「アルベルト……おまえなんてやつだ。こんなことをするやつだなんて、俺、思ってもみなかった……。よりによって、問題を盗むなんて……」
人間が信じられなくなった、とアレフは思った。
アルベルトはゆっくりと首を振る。
「盗んだんじゃ、ない。……ま、不正したことにはまちがいないけど。この問題は、先週の土曜日の朝、オレの机の中に入ってたんだ……」
「そんなことって……」
アルベルトは。まじまじとアレフの顔を見ると、
「びっくりしてるところを見ると、どうやらアレフはこの件について何も知らなかったみたいだな。実は、オレ、アレフがこっそり誰かに頼んで不正しようとしてたんだって思ってたんだぞ」
アルベルトが用紙をひっくり返すと、そこには鉛筆でうっすらと書かれた文章が読み取れた。
アレフさんへ。
テストがんばってください。
応援しています。
「えー?」
何がどうなっているのだろう。
アレフは口をあんぐりと開けていた。
事情がわからないまま呆然としていると、アルベルトは唇を震わせながら……。
「これはオレの想像なんだが、この用紙はもともと誰かがアレフに渡そうとしてたものなんじゃないか。アレフの席って、オレと隣同士だろ……。で、まちがってオレの席に……」
「………」
(トリーシャちゃんだ……)
思わずぴんときた。
アレフはそっと唇をかむ。
(……俺のためを思って、なのかもしれないけど、実は俺の足を引っぱってるっていうのがあの子はわかってないんだ……)
オレだってさー、とアルベルトは溜息まじりに続ける。
「まさか本当にテスト問題だなんて思わなかった……。アレフの知り合いが冗談でやってると思った。そしたら、一日目の古典じゃ、ずばりそのまま問題が出ただろ?オレ、躁状態になってはしゃいだよ……自分が不正したことも忘れてさ」
「そういえばおまえって異様なほど楽しそうだったなあ」
「……万店取れるの、あたりまえだよなー。オレ、このことは先生にいうよ。机の中にテスト問題が入ってたなんて、信じてもらえるかどうかわからないけど、追試を受けることにする……。そのほうが、すっきりした気分で入試にのぞめそうな気がするんだ」
アルベルトがきっぱりといったので、なんだかアレフは嬉しくなった。
(アルベルトって、俺がいわなくたってちゃんとわかってるんだもんな。ただの筋肉だけの男じゃなかったんだな、やっぱり……)
アレフが顔をほころばせていると、アルベルトはにやりと笑った。
「……嘘をつけない性格なのはアレフだけじゃねーんだよ。あーあ、なんだかいったらすっきりしたぜ。オレ、なんか食おうっ」
とメニューに手を伸ばす。
「ま、いざとなったら俺、証人になってやるからさ。……これは証拠の品だから大切に保管しておいてくれ」
と、用紙を大切そうにたたみながら渡すと、アルベルトはにっこりと笑う。
「それにしても、誰がこんなことをしたんだろうな。アレフに惚れてる女じゃねーか?」
「い、いや……俺はもう浮気はしないんだ」
「……なんのことさ?あ、ちょっと……」
一瞬きょとんとした顔をしたアルベルトだったけれど、ちょうど眼鏡をかけたウェイトレスがグラスに水を注ぎに来たのでメニューをもう一度見る。
「えーと……ハンバーグ・ライスにシーフードグラタン。あ、きのこピザも食べたいなあ」
「……それはいくらなんでも食べすぎじゃねーか」
と、アレフがあきれていうと、アルベルトは今までの苦悩を忘れてしまったような口調で。
「だってオレの新しい彼女、いっぱい食べる男の人が好きっていってくれるんだぜっ」
<TO BE CONTINUED>